自分の経験とオーバーラップしてしまった
とんでもない話でとんでもない人間たちの話、自分には関係のない話とはとても言いきれない。
主人公もその周りの人間たちも一手一手を間違ってしまう。家族は悪意があっただろうが。
何度か塾講師からの性被害を告白した時、責められてしまう主人公。
本を読んでいて、助けてあげたいと声にならない叫びのようなものを感じた。それは私も塾講師からの性被害経験者だからなのか。
私は、不登校で学校に行っていなかった。そんな中学2年生の頃、母はカルトに入信していてその繋がりで知ったという個人塾に通わせた。そこでは女子中学生が自由にコーヒーとレモンティーが飲めて、お菓子も用意されていた。
自由な雰囲気と言われたらそれまでだけど、「変な塾だな」と感じた。その塾のおじいちゃん先生は優しそうだし何も悪いことはしてないしその時の違和感を言葉では言い表せなかった。
その塾に通って1ヶ月ほどした時、母と先生が話したらしく私はお昼、他の生徒が学校に通っている昼の時間に1人通うことになった。
勉強してお昼ご飯を食べた後、先生はお昼寝をいつもしているから寝るとベッドで寝た。私もおいでと誘ってきた。1度断った時、そのおじいちゃん先生が「他の生徒があなたを嫌いと言っていた。なぜと聞いてみたが、昔は好きだったけど今は嫌いになった。と言っていた。」と。
私は泣いた。そして泣いている私を慰める形で抱きしめ、ベッドに連れて行った。嫌だと思ったが、断ることは私が悪いと思わせる空気がそこにあった。友達と思っていた塾の生徒が私を嫌っているらしいショック状態の私は同じベッドに入った。体を触れて髪を撫でられてこんなに良い子なのに他の塾の生徒に嫌われて可哀想と塾講師は言った。
帰り道、その塾にはもう通いたくないと思った。
母に話すも私を嫌いと言った生徒のことを怒るだけでこれからも塾は行けと言われて誰も味方はいないと悟った。
性被害で傷つき、母親は私の味方ではないと傷つき、一体どちらで絶望したのかすらわからなくなった。何にも誰にも守られない感覚。そんな現実を恨みつつ、受け入れられなくて自分を責めたように記憶している。
あの頃の私は、自分を責めることで苦しみを終わらせられると思っていた。それでしか自分を守れないと思い込んでいた。
当然、終わらせられるわけはなく、守れるわけもなく、40歳になった今でも苦しんでいる。あの時、私はどうすることができたのだろう。子どもは無力すぎる。家庭に隠しごとがあると人は狂っていくようだ。
母はアルコール依存症の再婚相手と別居しながらカルトに狂っていた。母ほどわかりやすい狂い方はしなくても狂っている親を持つ家庭は今日本にどれほどあるのだろう。機能不全家族の元に生まれた子どもは必死に生きても無力で自分を責めていないだろうか。余計な老婆心だと思うが、あなたは悪くない。自分を責めないでと伝えたくなる。
思い出したくない過去ではあったけど、文章にすることであの頃の自分の苦しみに寄り添えた気がした。
残念だけど、悪意を持った人間はいる。
この本を読んで被害に遭った、遭わないの話で終わりたくないと思った。現実にとんでもない人間のとんでもない話が転がっていても私たちは気づこうとしない。気づいていても見て見ぬふりをしていると思うのだ。
私は見て見ぬふりをしてきたし、されてきたと思う。今も見て見ぬふりをしていることがある。良い悪いで片付けられないこともあると思っている。
ただ自分が人が見たくないものになってしまった時、ほとんどの人が助けてはくれないということを発信したいと思った。もし自分が人の望まない見たくないものになってしまった時、絶望はすると思うけど、ありきたりだけれど諦めないでほしいと願う。諦めてしまっても心の奥底で酷い目に遭って自分は苦しかったことを自分に許してあげてほしい。誰もあなたは悪くないと言ってくれなくても、自分は悪くなかったと気づける日が来ると信じれることを願っている。
私は今、この本を読んで悲しいけど、悲観しているわけではない。こんな本に出逢えてよかった。
今もまだ自分を癒せてはいないけれど、過去を認めることができた。それだけでも隠し続けていた頃より救われたと思った。